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楽器が弾きたい [考えたこと]

思えば・・
3歳の頃から音楽教室に通っていた。

音楽は聴くのもいいけれど
自分で演奏する楽しさは別物だ。

昔習っていたピアノを始めるか、もしくは新たな楽器に挑戦するか・・

楽器は
上手く弾けないところからスタートして、
だんだん弾けるようになっていくことが楽しい。


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もう一度・・ [考えたこと]


昔・・ こんな決意をした。


  なりたい自分になろうと思った。
  
  きっと それは視点を高くすればいいこと。
   
  手に入れたいものは 手に入れていいんだ、ということを・・  
  私は知らなくてはならない。  

  自分自身を抑えていたものは 自分自身だった。 

  可能性は 実は もっともっとある。  
  
  それを手に入れることにした。



これは、かつての私の強い決意・願いだった。

けれど人は忘れてしまう生き物だから・・ 

何もしなければ決意したこと自体を 
いつしか忘れてしまう


忘れないために 

繰り返し読み返して 思い出す。

もう一度・・ 何度でも・・ 決意する。





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欲しいものは持ってる人からもらう [考えたこと]

15才の頃・・・
なぜか私の周りには 
いわゆる家庭の事情ってやつを抱えている友人が集まった。

両親が離婚をして片親だけと暮らしていたり、
父親が早くに亡くなっていたり、
両親とは会ったこともなく祖父母に育てられていたり。

今思えば・・彼女達とは足りないものをお互いに補い合おうとしていたのかもしれない。
友達というには近すぎる距離・・
私達は一緒に居られるだけ一緒に居た。
離れていると・・すぐに会いたい気持ちになった。

彼女達と一緒に居ると 暖かくて優しい気持ちになった。
そして、切ないという感情も教えてもらった。

「両親はどこかで生きているけれど、顔も覚えていないんだ。」 と話す友人。
15歳の私は そのどこかに生きているという友人の親に文句が言いたかった。
けれど、言う相手がいない・・・。
行き場のない思いを知って
私にはどうすることも出来ないことがあることを知った。

「テレビドラマを観ているよりも こうして人と会ってるほうが断然面白いのにね。」
と友人はよく言っていた。
(その言葉通り、現実(リアル)・実感はテレビの中には無かった。)

切ないことがあったときには ただ黙って一緒に居るだけのこともあった。
夜の街を一緒に歩く・・・
一緒にいることが
あの頃は必要だったのだと今は思う。



きっと、両親から与えてもらいたかったものは 沢山ある。
(愛情、優しさ、励まし、思いやり・・・その他たくさん)

だけど 無いものは欲しがっても もらえない。


両親が生きているとしても 
私達が欲しいものを両親が持っていないとしたら
持っていないものをもらうことは出来ない。

両親だけとは限らない。
恋人や友人から もらいたいものも沢山ある。
けれど 基本は同じ。
その相手が 持っていないものはもらいようがない。
じゃあ どうすればいいのか・・・

持っていない人からもらおうとする気持ちを手放して、
持ってる人からもらうという考え方にチェンジをすれば、
実は・・・持っている人の傍に居るだけでもらえるようになる。

それとは 逆に 
持っていないものを「くださいと」お願いされたとしたら・・
残念だけれど 私には あげられない。
あげたい気持ちがあったとしても ないものはあげられなかった。

思いやりや やさしさ・・その他 さまざまなもの・・・
自分にないものは 人にあげることは出来ないことを知る。


だけど、
どうしてもあげたいと思う気持ちがあるのなら
少しづつでも集めて揃える(笑)
どうにかして自分で持つことだ。


とにかく、「この人から 絶対にもらうんだ。」などと限定しないほうがいいし、
(この人からという部分にこだわると 相手も自分も苦しめることになると思う。)

一人のひとから すべてをもらおうとしないほうがいい。
(すべてを兼ね備えている人はいないし、依存は相手を不自由にする。)


私達に必要なものすべては もっている人からもらおう。

そして・・・

人にあげられる自分になろう。


        
  
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作品は自分で描いたものだった [考えたこと]

私の現実は 一瞬一瞬の想念の積みかさねで出来ている。

私が今の瞬間、「考えたこと」「思ったこと」… それが積み重なったもので出来ている。

それは 作品を作る時の一工程であり 絵を描いている途中の絵筆のひと塗りである。
綺麗な色の絵を描きたい時に 濁った色を塗ったとしたら 綺麗な色の絵は完成しない。
私が濁った色を塗っているのなら、綺麗な絵にならないことは…当たり前の事だった。

今、目の前に描かれているこの絵(人生)は私の作品だった。
なのに私は目の前のこの絵を不満に思ったりする。
濁った色の部分がある事を他人のせいにしたりする。

自分が塗ったのに、そんな風に思うことは滑稽だ。
なのに何故か…。

私は無意識に絵筆を動かしていた。
その絵筆を動かすという行為の意味が解っていなかったし、
絵を描いていること自体に気が付いていなかった。
目の前の絵はいつの間にか…偶然や他人によって描かれたように感じていて
自分を無力に思っていた。

私達は無力なんかじゃなかった。
実は凄く力を持っている。
体だって私の思う通りになる。
思う通りに・・・
病気になることすら出来る。
健康になりたければなることも出来る。

瞬間の意識・想念の積みかさねで何でも思うがままになる。


何を、どんな絵を描きたいのか、イメージを持って・・ それに向かってひと塗りを繰り返す。

絵筆の動き、水の量、色の混ぜ具合、ボカシ方、完成させる為に様々な技法を工夫する。

自分が描いている事を自覚出来た時に 初めて 描き直すことが可能となる。

自由に好きな絵が描けるようになる。




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心の癖を知る [考えたこと]



心はすぐに答えを出したがる。

心に感情が起こった時…、
その感情がおこった訳を
私達の心は すぐに答えを出したがる。

訳のわからない不安やいらいら、嫉妬や妬みの感情、寂しくなったり悲しくなったりした時、
心は 答えがもらえると落ち着くから 答えをすぐに探し出す。

他人のせいにしたり 境遇のせいにしたり あげくには自分のせいにしたっていい。
とりあえず理由は何だっていい。心は答えが欲しくてしかたがない。
心は答えさえもらえば 瞬間 ほっとするし とりあえず落ち着くからだ。

答えを出せば とりあえずの安心が手に入る。 

そして・・・答えを出すことで見逃してしまうことが沢山ある。


答えを出せば そのままを見失う。
 



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誰もが自分の話ばかりしている [考えたこと]

多くの人が自分の話を聞いて欲しがっているように思えます。
人の心の中の 聞いてもらいたいという必要が充たされたがっています。

自分の話がしたくて聞いているふりをしながら無意識に話す機会を狙っていたり、
相手の言葉尻をつかんで 相手の話から自分主流の話にもっていったり。
相手は自分の話が終わっていないので続きを話すから 
お互いの話がかみ合わない。
誰もが自分の話ばかりしている・・・。
そんな状態が多くの場所で見られるように思えます。

何の為に相手と一緒にいるのかをもう一度考えてみたいのです。


心から聞く、聞いてもらう、という事は凄く大切なことだと思います。
何故なら私達は 自分の話を真剣に聞いてくれる人にだけ、心を開くことができるからです。


途中で遮られることなく最後までゆっくりと耳を傾けてもらえた経験がありますか?


そこには 自分のことを受け入れてもらっているという実感があります。
そしてその実感が安心感、信頼の気持ちを呼び、
そうなって初めて、人は 心を開いて本音を語るのではないでしょうか?

つたない私の話をニコニコと最後まで聞いてくれる人の前では 私もいつのまにか無防備です。
なんとなく幸せで 安心感があって心地よさを感じます。


そのことに気づいた今は、出来るだけ相手の話を聞いてあげたいなと思っています。
私は相手の本音が聞きたいし、私も本心を語りたいから・・・。

話を聞いて、聞いてもらうというシンプルなことを
大切にしていきたいと思います。


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習慣のちから [考えたこと]

日々の生活の中での繰り返しが持つ力。
イチロー選手の規則正しく繰り替えされる毎日の中に潜在意識の力を引き出すヒントが
隠されているような気がしました。
もう一度、毎日繰り返されている習慣を見直そうと思います。
自分の為になっている習慣はそのままに。
マイナスの習慣を見つけ出し、改善し、新たな実につけたい習慣を作り出す。
やるべきことの優先順序を出さなきゃね。
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自分で自分をしつけする [考えたこと]

無知の知を知り、問うことから始まる新しい認識の世界。
私が自分の小さな認識の中で生きていることに気がついたのは最近のことでした。
知らないということを知ったあの時から、止まっていた何かが動き始めました。


-2006年11月の日記から-


ある日、 なにも知らない自分に気がつきました。

私には子供はいないけれど 
ふと、子供を育てる事を考えた時には 
まともに教えてあげられることがない気がしたのです。

私は一人暮らしをして 働いて 生活しています。
けれど その内容は・・・ 
仕事に重点をおいて 毎日の生活をなんとなくこなしていただけなのでしょう。
その情熱を傾けていた仕事で行き詰った時・・・
凄く落ち込んで 無気力となりました。 

5年の情熱をかけた想いでした。
でも、動かす事の出来ない現実の状況と想いとの差を認識してしまい、失望し、
やる気がなくなってしまったのです。
情熱の消滅・・・。
その状況がつらくてつらくて、抜け出すために 
自分を変えようと決心したのです。

なにも知らないと感じるのなら 今から 自分で自分をしつけしていく。育てていく。
暮らすということ。食のこと。人との関わり。言葉のちから。
知りたいことは 本当はたくさんあって、一生勉強していこうと決心しました。

今日より あしたの自分はちょっとずつでも良くなっていく。
そして。。。 決して、あきらめないことを、決めました。

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欲しいものは目の前にあった [考えたこと]

オズの魔法使い・・・
ドロシーは 故郷の家に帰る方法を探していた。
ライオンは勇気を。カカシは脳みそ。ブリキは心が欲しくてドロシーと旅を共にする。

青い鳥・・・
幸せの青い鳥を探して チルチルとミチルは旅をする。

欲しい何かを求めて旅をする物語は多いけれど
結末は 実は最初から欲しいものは傍にあって、外に探しに行かなくてもよかったんだよってなる。
でも 皆 外に探しに行く。旅をする。
だけど 欲しいものは外にはない。
私達は旅をして、苦労して、見つからないことに失望して、ふと気づく、
欲しいものは目の前にあったことを。

目の前にありながら 見えず 感じられず 解からない。
結局 私達に必要なのは 目の前にあるものを 見ることのできる目と感じられる心。
幸せを手に入れるのではなくて・・幸せを感じる心を手に入れる。






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常識は間違っていることもある [考えたこと]

私達が頭にまずはじめに叩きこむべきは
今、自分が真実で正しいと思っていることは間違っている可能性があるということ。

それは過去や歴史を振り返ってみれば解るのではないでしょうか。

常識は常に覆されていっています。

地球が平らだと信じられていた時代に 地球が丸いと言った人は気違い扱いを受けたでしょう。

私達は過去の歴史を振り返って・・
今から思えば
あの出来事は間違っていたと判断しています。
あの頃は 今では考えられないようなことが常識だったんだな、と思ったりします。

例えば、過去の奴隷解放運動。
その時代には 奴隷解放を唱える人と奴隷解放に反対する人がいました。
今の私は奴隷解放に賛成する側です。
けれど、もしその時代に生きていたとしたら、どちら側の人間であったでしょうか。
このことを私はよく考えます。
私はどちら側の人間であっただろうか・・・と。

生まれた時から奴隷が存在することが当たり前だった時代です。
父親も母親も奴隷が間違った制度だなんて教えてくれません。
無垢な子供は両親の言葉を疑ったりしないと思います。
そして奴隷が存在することで恩恵を受けていたとしたら・・・。
はたして、どちら側の思想であったでしょうか?
私は 奴隷解放を唱える側にあったでしょうか?

同じ事が・・・今現在問われています。
私はどちら側にいるのでしょうか?
未来からみて、間違っている常識が、きっと沢山 周りに溢れています。
生まれてからインプットされてしまった固定概念を外して、
未来からの視点で物事を捉えることが出来るのか・・。
古い認識を守ろうとする側と新しい認識を持ち時代を変えようとする側と
どちらでいたいのか・・。

私は 人として 正しい判断を出来るようになりたいと思うのです。



人が・・正しいと思われる情報を受け入れようとしないのは何故なのでしょうか?
むしろ 真実に近ければ近い情報ほど 伝わらないのは何故なのでしょうか?

どうやら、新しい考えや意見というものは たとえ真実であったとしても
すぐには 常識にはならないみたいです。

新しい説は 受け入れられるまでには何段階かの段階を踏むと聞いたことがあります。
まず 新しい考えは 仮説として打ち出され
その時代の利益に反する場合には 
その説により不利益をこうむる人々から奇説・愚説、呼ばわりをされ
だんだんと証拠が集まったり、科学的に実証され、反論出来なくなった状態で 通説となり
その説が一般大衆にも広まり、信じる人々が多くなった場合に やっと常識となる。

こう考えると 真実に近い情報ほど拒絶されるのは 
その情報によって、不利益をこうむる人々が沢山いるからなのですね。

私自身 自分が本当だと信じている情報でも 伝えられない時があります。

例えば 白砂糖の害。
白砂糖は 血液の粘性を増し 血糖値を急激にあげ 
体に吸収される際には体からビタミンとカルシウムを奪い・・・・と
知った実害を挙げていけば きりがないくらいだけれど、
例えば、夢を持ち ケーキ屋をオープンしたばかりの人には 
話したくないと思っている自分自身がいるのです。
町中に 白砂糖を使用したお菓子が出回っていて、
多くの人々は それを食べることに快を感じています。
白砂糖の話は そんな人々には 快を奪う不利益な話であり不快だと思うでしょう。
白砂糖を原料として使用しているメーカーには 不利益な説に他ならない・・。
本当かどうか検討する以前に不利益なのです。
私は 商売を邪魔したいわけでも 楽しみを奪いたいわけでもありません。
ただ、人々は健康を望んでいるから 伝えて健康になって欲しいと思っただけでした。

そして 病院! 病院での矛盾した情景。
病気のお見舞いにお菓子やケーキ、アイスクリーム、弱った体に白砂糖を入れるだなんて
回復を遅らせる行為に私の目には映ります。
でも 持っていった人は 回復を願っている、病人を喜ばせたいと思っているのです。
そして 白砂糖の体への影響を知らない病人も 喜んで受け取って食べていたりする。
この逆さまな状態をなんと表現すればいいのか!
人々の善意が 無知のために 想い((治って欲しい)と 逆のこと(悪化させる)を生み出していっています。


今までに聞いたことのない話を聞いたとき
不快感を覚えるのは 大なり小なり 不利益なことがあるからだと思います。
本当か嘘かを判定しようとすれば 情報を集めなければならないかもしれないし労力を要します。
思考を働かすことすら 面倒に感じることもあるだろうし
真実だと思ってしまった日には 自分の生活習慣や何かを変える必要性が出てくるかもしれないし
なにより 今までの自分が間違っていたことを認めなければなりません。

新しい考えというものは 求めていない時には 厄介事でしかないのかもしれません。

けれども 本当のことを知らない限り 人の苦しみは終わらない気がします。

本当の事を知るために・・
新しい説を聞いた時には 常識は間違っていることもある ということを思い出し 不快感を押しのけて 検討してみる。 そして 自分で判断できない時には 否定も肯定もしないで情報のひとつとして保留にしておいて 時間が経ち、更なる情報が入って来た時には先入感を持たずに再検討をしてみる。 先入感がなければ 正しい判断に近づける。
未来から見たときに 私はどちら側の人間でいられるか・・・。

常識は常に変化していくものだと覚えておきたいと思っています。




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